ちょっと引っかかってる話

ネット上のあれこれを見ていて、個人的に少し逆張りセンサーが反応している事柄について書いておく。

オリンピック

covid-19の世界的な流行で東京オリンピックは延期・中止を余儀なくされそうである。
個人的にオリンピックに大した興味はない。しかし、ネット上のオリンピック叩きは、ちょっとやり過ぎではないかと感じている。オリンピックは反体制方面NO OLYMPICS 2020> 反五輪の会 (Hangorin No Kai)はもとより、あまり極端でない立場の人からも袋叩きにあっている。
確かにcovid-19の流行以前から、予算・ボランティア・気温・水質の問題やらが指摘されている。だがそれにしても負の側面ばかり取り沙汰され、オリンピック関連の報道に対する反応は、ネット上の意見のひねくれ度合いを加味しても、ちょっとひどい。
別にオリンピックが嫌いなら嫌いでいいのだが、covid-19の流行によって延期・中止と言われているのに対して嬉しそうにするのは、多かれ少なかれ関係者の労力が台無しになり、アスリートが活躍の場を奪われ、スポーツ文化が破壊されようとしているのを喜んでいるということである。少なくともそういう自覚くらいは持った方がいいように思う。
特に興味がなく、コミットもしていないなら「色々言われているけど、延期・中止になりそうで、関係者は気の毒だなぁ」くらいの感じでいいのではないかと思う。

ゲーム規制

ゲーム規制に関して香川県が盛大に炎上している。パブコメ書き換え疑惑など地方行政の闇とでも言えるような話が噴出しており、かなりろくでもない話っぽいのだが、個人的に「ゲーム脳」が非科学的だと批判されていた頃と比べると、状況は変化してきている気がしている。
個人的に、まあゲームは好きである。大げさかもしれないが、エンターテインメントのある種の最終形であると思う(少なくとも「インタラクティブな擬似的遊び」はどんなに技術が進歩しても広義のゲームである)。「かつては小説が、映画が、テレビが、漫画が、今はゲームが理解の無い年寄りに抑圧されている」みたいな(やや過度な一般化だと思われる)話を見かけたが、ゲームの先は多分ない。ゲームはそれくらい進んだエンターテインメントの形態である。
進んでいるがゆえに、その人を没入させる力には危うさも感じる。典型的には一昔前にいわゆる「ネトゲ廃人」が問題になった。やがてプレイ時間で優劣を競うデザイン(+密なコミュニケーション性)が危険視されるようになり、スマートフォンの普及などに伴って日課型のソーシャルゲームが大勢を占めるようになった。そしていわゆる「コンプガチャ」問題では確率を利用して射幸心をあおるシステムが、いわゆる「廃課金」問題では課金額で優劣を競うモデルが批判されてきている。そうした批判を受けて、最新のソーシャルゲーム等はそれなりのガイドラインの下に運営されている。それでもなお批判はある。この辺りはカジノ・パチンコの依存症の問題とも重なっている。eスポーツ的な競技性の高いゲームにおいても、韓国で青少年対象に時間制限が設けられたり、スター選手が精神的問題で引退したりという事例がかなりある。
去年だったと思うが、WHOがゲーム依存を正式に疾患と見なしたことが話題になった。この件も香川県の件と類似した反応がそこそこあった気がするが、おそらく、しっかりした疫学調査をしたら、長時間のゲームプレイの、様々な悪影響に関するそこそこ固いエビデンスは出てくる(というかもう結構出てきてそう)。
そういうエビデンスに対し「俺はゲーム沢山やったが、医者になった」みたいな(平均的ですらない)個人の体験談、「マインクラフトは教育的だ」みたいな特定ジャンルの一側面だけを取り上げた評価、「躾のできない親が悪い」「自己管理ができるなら良い」という素朴な擁護では対抗できない。それどころか、オールドゲーマーのノスタルジー vs ゲーム疫学みたいな構図すらちょっと見えてくる。
ゲームの表現力、長時間人を没入させ、場合によっては効率的に集金する仕組みは進化し、悪影響に関するエビデンスの評価も厳密化してきている。「ゲーム脳」という非科学的なゲーム悪玉論にツッコミを入れていればいいようなフェーズはもう終了している。
ゲームはもはや文化・芸術と形容できるような、大きな一つのジャンルである。安易に規制・禁止できるような(した方がいいような)類のものではない。しかし、その嗜好性、報酬系をハックするポテンシャルは、素朴な自由権の議論を超えた社会問題になり得るレベルのものであるとも感じる。
香川県の件はともかく、今後、社会におけるゲームの有り方についての議論は(SF的な電子ドラッグのようなものが出てこない限りは法規制レベルの議論にすべきだとは思わないが)開発側のガイドラインやレーティング等のレベルにおいては、簡単でない微妙なラインを探るものになっていくのではないだろうか