言語化・頭でっかち・生活感覚・本当の自分

しばらく何となく考えていた雑多なことを簡単にまとめておく。

言語化

言語化という用語は、ビジネス的な話でも使われるが(E)スポーツのコーチングの話でもよく聞く。
後者については、コツや自分の得意不得意などを明確な言葉にすることで、課題をはっきりさせ、情報を共有することで解決法が得られるというやつである。
合理的で、科学的なアプローチで言語化のスキルはさらに重要性を増していく気がするが、言語化された知識・技術というのは人口に膾炙し、コモディティ化するものでもある。
とすれば、逆に「言語化できないところにこそ神髄はある」みたいな傾向も強くなっていくのかもしれない。

頭でっかち

現代人は、昔の人に比べて相対的に、頭でっかちであろう。ネットが普及しチャットAIが騒がれる情報化された時代にあって、大量の言語化された知識の奔流の中で生きている。
一方で、これもよく言われる話だが、「理論と実践は別」というやつで、こと理論に力が入ると実践の力が足りなくなるものである。
理論を生かすには経験値が必要で、現代人はそっちの方が不足しがちであろう。「うだうだ考えて言葉を弄する暇があったらまず体を動かせ」というやつである。

生活感覚

そして、ざっくりした話になるが、現代人の頭でっかち化は、その生活感覚の欠如に繋がっているように思われる。
その時代時代に生きている人に優劣はない(むしろ平均的には現代人の方が総合的に賢く善良になっているだろう)と思っているが、何か便利になったり楽になったりしたら失われるものもある(別にだからクーラーを点けるなとか思わんけど)みたいな話で、人間の不便な生活の中で泥臭く積み重ねられた経験値・感性については損なわれてきているように感じている。
統計的に殺人事件などは減少傾向にあるとは思うが、「殴りあいの喧嘩もしたことがない人間が妄想に取りつかれて一足飛びに人を刺す」みたいな頭でっかち型の先鋭化が起き易くなっている気がしなくもない(イスラム原理主義もこういう感じな気がする)。
わずらわしくとも生活上やらなければいけないことがあれば、極端なアイデア(思想や妄想的な意味で)に取りつかれている暇はないのである。月並みだがインターネットがメンタルヘルスによくないとかそういう話もこの当たりと関連しているのではなかろうか。

本当の自分

頭でっかちで、生活感覚が欠如していくと、素朴な感覚に対する逆張りみたいな発想が生まれやすくなる。
本当の自分って何?みたいな話に取りつかれると、それこそ本当の、下世話な欲求にまみれた取るに足らない一個体であるところの、自分を見失うことになる。
自分の言動が何らかの打算からなのか、本心からなのかも曖昧になる。最低限の道理というものも分からなくなる。思想・党派性に基づいて、あいつらには何してもいい、みたいなことを本気で考えるようになる。(しかも具体的な体験に基づいているわけでもなく、まともに検証されていない情報を元に中毒的に憎しみの感情を育てている
そして一度そういうおかしなアイデアに支配されると、そこから脱するのは難しい。50:50や相互主義みたいな常識的な判断基準がなくなってしまう。こわいこわい。

やっぱりPC・TV・本ばっかり見てないで運動もした方がいいな(それでも変なものにかぶれる人はかぶれるが)、とか何となく思った。