センチメンタリストはヒューマニストではない
www3.nhk.or.jp
以前も似たような話がNHKニュースだかの特集で出ていた話で、ちょいちょいフォーカスされているトピックである。
ここにあるブックマークコメントで、けっこう黄色い星を集めてるものの中に以下のような物があった。
統計的には特に高くないとか言う人は、子供を産んだ直後に母親が自殺してしまい、後に残される夫と子供がどうなるか、ということをまったく想像していないようだ。自殺する人がいること自体が問題なんだよ。
何と人情味にあふれた熱いコメントであろうか。社会派()ドラマのキメ台詞のようである。
あえて強い言葉を使うが、こういう発想が現代の社会問題の真の解決、あるいは軽減を遠ざけているように感じる。
このセンチメンタリズムあふれる熱いコメントを書いた人は、これをタイプしている時に出産後の女性以外の自死遺族のことを想像していただろうか。
命が平等という前提に立ち「自殺する人がいること自体が問題」とするならば、統計的に単純に率を評価することが当然であって、分かりやすく「かわいそう」と感じられる属性にフォーカスを当てて盛り上がるのは、命を感傷で弄びつつ、良いことを言った気になって気分よくなっているだけである。
現実的には命は様々な意味において別に平等ではない。個別の事情は置いておくとして、例えば大枠で命の重さを考慮する指標として年齢があり、程度問題ではあるが、若年層の自殺率(実際高い)がその分重く扱われるのは、社会の継続性の観点から合理的である。
そういう意味で出産や配偶者の有無やら性別やらで命の重さを考慮する立場も別にあっていいが、それなら曖昧に感傷的になるのではなく、相場をはっきりさせろとまでは言わないが、命の重さを評価していることに自覚的であるべきだろう。
言語化・頭でっかち・生活感覚・本当の自分
しばらく何となく考えていた雑多なことを簡単にまとめておく。
言語化
言語化という用語は、ビジネス的な話でも使われるが(E)スポーツのコーチングの話でもよく聞く。
後者については、コツや自分の得意不得意などを明確な言葉にすることで、課題をはっきりさせ、情報を共有することで解決法が得られるというやつである。
合理的で、科学的なアプローチで言語化のスキルはさらに重要性を増していく気がするが、言語化された知識・技術というのは人口に膾炙し、コモディティ化するものでもある。
とすれば、逆に「言語化できないところにこそ神髄はある」みたいな傾向も強くなっていくのかもしれない。
頭でっかち
現代人は、昔の人に比べて相対的に、頭でっかちであろう。ネットが普及しチャットAIが騒がれる情報化された時代にあって、大量の言語化された知識の奔流の中で生きている。
一方で、これもよく言われる話だが、「理論と実践は別」というやつで、こと理論に力が入ると実践の力が足りなくなるものである。
理論を生かすには経験値が必要で、現代人はそっちの方が不足しがちであろう。「うだうだ考えて言葉を弄する暇があったらまず体を動かせ」というやつである。
生活感覚
そして、ざっくりした話になるが、現代人の頭でっかち化は、その生活感覚の欠如に繋がっているように思われる。
その時代時代に生きている人に優劣はない(むしろ平均的には現代人の方が総合的に賢く善良になっているだろう)と思っているが、何か便利になったり楽になったりしたら失われるものもある(別にだからクーラーを点けるなとか思わんけど)みたいな話で、人間の不便な生活の中で泥臭く積み重ねられた経験値・感性については損なわれてきているように感じている。
統計的に殺人事件などは減少傾向にあるとは思うが、「殴りあいの喧嘩もしたことがない人間が妄想に取りつかれて一足飛びに人を刺す」みたいな頭でっかち型の先鋭化が起き易くなっている気がしなくもない(イスラム原理主義もこういう感じな気がする)。
わずらわしくとも生活上やらなければいけないことがあれば、極端なアイデア(思想や妄想的な意味で)に取りつかれている暇はないのである。月並みだがインターネットがメンタルヘルスによくないとかそういう話もこの当たりと関連しているのではなかろうか。
本当の自分
頭でっかちで、生活感覚が欠如していくと、素朴な感覚に対する逆張りみたいな発想が生まれやすくなる。
本当の自分って何?みたいな話に取りつかれると、それこそ本当の、下世話な欲求にまみれた取るに足らない一個体であるところの、自分を見失うことになる。
自分の言動が何らかの打算からなのか、本心からなのかも曖昧になる。最低限の道理というものも分からなくなる。思想・党派性に基づいて、あいつらには何してもいい、みたいなことを本気で考えるようになる。(しかも具体的な体験に基づいているわけでもなく、まともに検証されていない情報を元に中毒的に憎しみの感情を育てている)
そして一度そういうおかしなアイデアに支配されると、そこから脱するのは難しい。50:50や相互主義みたいな常識的な判断基準がなくなってしまう。こわいこわい。
やっぱりPC・TV・本ばっかり見てないで運動もした方がいいな(それでも変なものにかぶれる人はかぶれるが)、とか何となく思った。
ファクトチェックについて
日本ファクトチェックセンターとかいうのができるとかできたとかで、話題になっている。
具体的な議論の本筋とは別に、すでにファクトチェックという単語自体、胡散臭さを帯びるようになってきているなと感じている。
ファクトチェックという単語を初めて聞いた素朴な人は
「ファクトチェック!元の報道や情報発信に加えて検証をしたことなんだな!」
と最初は思うだろう。
で、
「ファクトチェックのファクトチェックはどうするの?」
「ファクトチェックをする対象が偏ってない?」
「結局チェックする人が信用できなければ同じじゃない?」
という発想に至る人が十分に増えるまで、ファクトチェックという錦の御旗は有効であろう。
やがて、
「俺の方が正しいファクトチェックだー!」
「お前のファクトチェックは間違ってるー!」
という戦争が行われるだろう。というか、もう行われている。
まあやっぱり声が大きい業界の人が有利だろう。アドバンテージを活かしつつ、自サイドの声を通すためそっちの業界の人はコミットしてきているようだ。
そのうちファクトチェックという単語が飽きられてきたら、トゥルースチェックとかリアリティチェックとか言い出すかもしれないし、言い出さないかもしれない。
何にせよ、最初からそっちの業界が変な色気を出さずに自前でファクトチェックしてれば、二度手間三度手間にならなかったろう。こういうのも人間の業(カルマ)というやつだろうか。とかちょっと思った。
アファーマティブどうこう
大学の女性限定公募の話を発端に、アファーマティブ・アクションどうこうが話題になっている。
色々議論されているが、個人的にこういうのがダメなんだよな~と改めて感じたポイントをいくつか挙げる。
欧米どうこう
いい加減飽きてきたが、欧米の情勢が正しい、優れてるとは限らない。国際比較の際は良い面も悪い面も見ましょう。文化や社会制度の違いも考慮しましょう。
なお米国ではマイノリティを選考の候補に入れる的な試みは盛んだが、直球の性別限定公募は普通に違法になるはず。気持ちだけが先走ってノリノリになっている人たちは、欧米の情勢すら正確に把握しているのか怪しい。
この辺を踏まえてない議論はダメ。
個々人の意思
研究者に限らず、なりたい人間が少なければ、なる人間も少ないのは当然である。
個々人の意思を反映した結果に対し、公権力でテコ入れするのが妥当なのかは、難しいバランスの問題である。
功利主義的にいうと、個々人の意思を反映した結果生じたジェンダー不均衡という事象があるとして、それがトータルで社会的厚生をどの程度損なっていて、それを変更することに社会がどれだけのコスト(犠牲といってもいい)を払うことが妥当であろうかという話である。
この辺を踏まえてない議論はダメ。
アンコンシャス・バイアスやら
個々人の意思をどうするかという話をすると、すぐ社会構造とかアンコンシャス・バイアスとか賢しらなワードが出てくるが、個々の因子が具体的にどの程度影響しているのか、どの程度問題なのか、量的に(あるいは多面的に)検討することもなく、勝手に支配的だということを前提にしてスタートしてしまっているのが散見される。
定性的な話だけから、あまり強い主張はしないようにしましょう。やたらと因子を増やす前に、一つ一つ丁寧に検討しましょう。
この辺を踏まえてない議論はダメ。
ところでトランスジェンダーは
ジェンダー不均衡という時、どういう扱いになるのだろうか。別にどちらでもいいが、どうもしないならアファーマティブどうこうの話をする時はもうジェンダー論は白紙に戻して議論した方がよさそうである。
ヒトラーよばわり
もう旬は過ぎた話題で、↓はあんまり引用したくない記事だが
news.yahoo.co.jp
この辺のことについてちょっと思ったことを書いておく。
twitter上などでも海外でヒトラー呼ばわりはどうなのかというところで、あれこれ議論されている。
それで見落とされているなと感じるのは「オフィシャルな発言であるかどうか」という点である。
まず、海外で政治家をヒトラーやらナチに例えたり、そう呼んだりするのは、別に珍しいことではない。ネット上にも転がっている。
しかし、程度の問題ではあろうが放送禁止用語的な強い言葉ではあるし、立場のある政治家が、選挙演説や公共放送での討論で公式に対立候補にやったりすると、普通に問題発言とされる表現ではあろう。
その上で、個別の表現の強さやSNS上での発言がどの程度オフィシャルなものなのかは議論の余地がある。いずれにしても結局は政治の話なので、その辺はオーディエンスがどう判断するかが重要なのだが。
しかしまあ、英語圏もf**kやらbi**chやらre**rdとか強い・下品な言葉のインフレが激しいし、ポリコレいうてる人らの口の悪さとか考えると、気に入らん政治家はヒトラーみたいなのは一定の界隈ではどんどんカジュアル化してきている感じがする。その傾向が加速していくのか、それとも過激な表現に眉をひそめるオーディエンスによってブレーキがかかるのか。こういうのもテキストマイニング+統計的手法などで分析すると面白そうではある。社会学とかでやってみてほしい。
で、個人的にはヒトラーよばわりは、海外でどうとかは本質的な問題ではなく「強い言葉はほどほどにせえよ」「比喩表現は考えて使えよ」という感じである。
大げさな言葉は議論の精度を下げる。まあ最初から議論の精度を上げる気がないという線もあるわけだが。
炎上と署名
炎上
「ネットで炎上」というのが一般的に使われる言葉になって久しいが、一口に炎上と言っても色々なパターンがある。
分類の仕方も色々考えられるが、単純に大きく二つに分けるなら「火をつけられたパターン」と「自分で火をつけたパターン」と言ったところだろうか。
(もちろん冷静に十分議論した上で意見が分かれるような微妙なケースもあるだろう。)
で、どちらのケースにしても対応しきれない量の批判が集中することは、個々の批判が正当であったとしても、ほとんどリンチのような状態であり、それは暴力的でよろしくないことだと思う。
十分面の皮が厚ければノーダメージかもしれないが、それはそれで自分で火をつけてノーダメージの炎上マーケティングのような問題が生じてくる。
ようはアクセスが良すぎるが故に、何らかの言動とその報いのバランスがとても悪く、何が問題で何が問題でないかもはっきりせず、ただ騒ぎになって収拾がつかない事態になるというのが炎上の厄介なところである。
キャンセルカルチャー・メディアスクラム
上で挙げた炎上の問題点は、そのままキャンセルカルチャーやメディアスクラムの問題点とも共通している。というか、これらは本質的に類似した概念であろう。
署名
だから個人的に、大量の批判意見を集約し、代表を立てて議論するツールとして、署名というのは悪くないと思っていた(過去形)。
しかし現状はごらんのあり様である。
まあ署名というのが社会運動の中できな臭い使われ方をしてきたのは今に始まった話ではないが、それにしても結局署名でもやってることは炎上である。
www.change.org
↑のサイトなども、認証がガバ過ぎてまともに受け取ることがすっかりバカバカしくなってきた。認証をちゃんと行えばマシになるだろうか、ならないだろうか。
オープンなんちゃら
話題沸騰中のオープンなんちゃらも盛大な茶番で、それで権威とか権力のある組織がマジで動いて収拾がつかない事態になっているのも盛大な茶番である。アホちゃうか。
何というかあの辺の界隈は常識的なバランス感覚とバカバカしいものにはバカバカしいと言える風通しの良さを持つべきではなかろうか。
愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ
という言い回しがある。
ふと気に入らない感じがしたので、無粋だとは思うがツッコミを入れる。
まず、歴史を過大評価しているきらいがある。歴史を学ぶことを貶める気はないが、ぶっちゃけ歴史は「特定の視点からの世界の経験の記録」であって、それ単体ではあまり解像度の高い未来予測をもたらさない。解像度の高い話をしたいなら、やはり実験とかデータ分析が大事である(もちろんできなければ手持ちの情報から考えるしかないが)。
何というか、うんちく好きの人などが「歴史を学べば今の世の中が分かる」的なことを雑に言うが、それは割とポジショントークで歴史に多くを求め過ぎだと感じる。歴史は繰り返したり繰り返さなかったり、マイナーチェンジしたり全く違ったりするものである。
探求そのものが目的なら詳細を詰める事自体に学問的な価値があると思うが、ひたすら個々の歴史的詳細を引用し「〇〇という歴史があるから✕✕なのだ」という風に歴史に取り憑かれるのも、あまり人類にとってよろしくないという気がする(改めてそう思わせる出来事が幾つかあった)。歴史に取り憑かれて狂うのもまた人生、みたいなところはあるのだが、多くの人にとってはエッセンスだけ押さえて前に進む方が健全であるのは間違いない。
あと、経験はちょっと過小評価しすぎだろう。学びというのは多分に経験的なものだし。