バリアフリー・合理的配慮

ネット上で「JRで車椅子は乗車拒否される」という趣旨の表題の記事が出て、表題とその内容ともに物議を醸している。
障碍者福祉というトピック自体は様々な意見、議論が生じる余地のあるトピックであるが、個別の案件としては概ね炎上の様相を呈しており、個人的にも批判的な意見が多いことに頷ける内容ではあった。
このトピックに関し、前からちょっと考えてたことがあったので、今回の件の感想とあわせてまとめることにする。

理想論は

あらゆる格差・差別がなくなるのが理想論としては目標であろう(究極的にはディストピアのような気もする)。今回の件で批判的な意見を言っている人の中にも、その方向性自体に反対する人はほとんどいないと思われる。

現実的には

現実的には様々な制約がある。技術的・金銭的・人的制約など色々考えられるが、技術も金銭も人が生み出すものであり、人的制約の範疇であるとも言える。合理的配慮というのは、この制約との兼ね合いを考慮した上での、程度問題である。これを認めないと議論にならない。
例えば、一ヶ月に一回、心臓移植を受けないと駅の階段が登れない障害を持つ人がいるとする。もしバリアフリーのための合理的配慮が程度問題でなければ、一ヶ月に一人ドナーを用意することも義務になる。
介護問題などでも言われることだが、要するに介護や支援の場において、多かれ少なかれ如何ともしがたい人権の衝突が生じ得るということである。企業・国がコストを払えばいいと言っても、その原資・労働力は誰かが負っている。それが莫大になると受益者以外の人権を圧迫するというのは、当然の帰結である。
この問題について最も希望があると思われるのは、逐次的なマンパワーではなく、新しい制度を作ることでもなく(制度はリソースの限界を解決するものではない)、科学技術の進歩による包括的な解決であろう。しかし、その研究・開発・生産費も税金か企業の経費から捻出されるもので、それも結局はその原資・労働力は誰かが負うことになる。
真のバリアフリーを実現するのに十分な性能のパワードスーツや義体が一般に普及するためには、どれくらいの原資・労働力が必要になるであろうか。果たしてそれは曖昧に「企業や社会、政治に責任がある」と口で言うだけで何とかなるレベルのものなのだろうか。

具体的に

制度が高度化、複雑化してきている現代の社会を積極的に変えていこうとするのであれば、やはり具体的に考えることが大事であろう。
まず、現存する無人駅を含むJRの全駅のバリアフリーにかかる予算はどのくらいで、事業として採算を取るためには運賃をどれくらいにしなくてはならないのか。
既に採算が取れず廃線になった、あるいはなりつつある人口の少ない地域ついてはどう考えるか。人口の少ない地域だからバリアフリー以前に路線が無くていい、というのはいかにも差別的である。平等を求めるなら、地域格差の是正も必要であろう。私鉄やその他の交通機関についても均等に考える必要があるだろう。それも加味した上でかかる予算はどのくらいか。
足りない分は税金で補助するとして、どれくらいの補助をつければ対応可能になるか。その予算は現在の税制で賄うことは可能なのか。経済の自由や市場の公平性との兼ね合いはどうなるか。実現に向けた取り組みの中で、過重な負担が発生しないようにするにはどうすればよいか。
社会運動の内部(やそれに関係するアカデミア)で、こういうことがもっと具体的かつ網羅的に検討されるようになれば、「バリアフリー・合理的配慮とは何か」がもっと明確に認識できるようになるのではなかろうか。

現実は如何ともしがたい

現実の如何ともしがたいリソース配分に関する議論は常に厳しい。多くの人がそれと真正面から向き合うべきだとも思わない。しかし、この問題に関して真摯に向き合っていると自負する立場をとるのであれば、空虚な理想論に終始するばかりではなく、如何ともしがたい面にこそ真摯に向き合うべきであろう。