モノ化概念のおぼつかなさの起源

フェミニズムと表現にまつわる議論で、しばしば「性的モノ化」という用語が登場する。この言葉のニュアンス、ふわっと言いたいことはほとんど自明である。人をモノのように扱うのはよくない、人を人として尊重しないのはよくない、というのはふわっとした意味では当たり前の話である。
「性的モノ化」概念に疑義を唱える論者も、多くはふわっとした意味ではこの前提を共有しているだろう。その上で、という話である。

「性的」を外しても

性的じゃなくてもモノ化はふわっとよくない感じがする。ここで、性的なのが特によくないのかという論点が生じる。セクハラとモラハラではモラハラの方が軽いのか。性的暴行と暴行では暴行の方が軽いのか。この辺りを冷静に一考することは大事であるように思われる。

モノ化って何?

モノ化の例を考える。

  • 主人の椅子にされる奴隷(一番分かりやすいモノ化)
  • 機械のように酷使される労働者(マルクス的世界観)
  • お一人様一箱キャンペーンに駆り出される別居の家族
  • 寝てたら麻雀のメンツが足りなくて起こされる

こういうネガティブなもの(大して問題にならなそうなものまで)が色々連想される。
厳密に考えると、人の機能を利用する行為は全てモノ化という要素を含んでいる。この意味において、現代社会において、人は他人をモノ化せずに生きるのは不可能である。やはり程度の問題である。
よって、許されるモノ化と許されないモノ化に分けるか、許されるモノ化はモノ化と呼ばないようにしないと、議論にならない。ここでは前者の表現で論じていく。

人として尊重

ここで「人として尊重」という「モノ化」と対立する概念をふんわりと提示する。これらが同時に成立すると考えるか、背反な事柄と考えるかは表現の問題である。ここでは前者の表現で論じていく。
つまり、「人として尊重度」と「モノ化度」を比較し(計測可能な値と仮定して)、「モノ化度」がとても大きい時に、許されないモノ化であるとする。これは自然な考え方であろう。

人として尊重するって何?

しかし、人として尊重するとは、人を使う側の内心の有り様である。モノ化しているとかいうのも、同様に人を使う側の内心の有り様である。内心が優しい人が、行動でも優しいとは限らない。最終的に問題になるのは外形的な行動の内容である。 ここまで書いておいて何だが、ここまでのふわっとした議論にあんまり意味はなかったのである。

心的な道徳論

モノ化概念というのは、多分に心的な概念である。これがおぼつかなさの起源であると思われる。
我々は素朴に、ふわっと、人には良い心と悪い心があって、悪い心が悪い行動に結びついていると考えてる。だから悪い心を何とかしたいと論じる。素朴でふわっとしたレベルにおいては、こういう話が説得的であったりするが、これは(そこそこ原始的な)道徳論の世界の話である。
このように、心的な道徳論に端を発しているがゆえに、モノ化概念は複雑な権利の衝突が生じている現実の問題を論じる上での、助けにならない(それどころか混乱を引き起こす)のであろう