ポスター再燃

献血ポスターの話が再燃している。
きっかけは発端となった某女性弁護士による「よくなった」発言である。
一連のもめ事について、雑感を軽くまとめる。

しょうもない

ぶっちゃけ、しょうもない話である。某女性弁護士の一連の発言、それに連動した多くのフェミニストの動きは「世の中をよくする」ものであっただろうか。取り上げる対象、付随する主張、社会的リソースの割き方、ほとんど「世の中をよくする」上で見当違いであったように思われる。一定層の女性の利益(?)を一方的に優先するとしても、批判対象の優先度や批判の方針、戦略が意味不明である。
極めつけは、今回の「よくなった」発言で、これで「あまり深く考えていないんだな」という印象が強化された。まあ、ご本人は崇高な信念に従って善行を重ねているという認識なのかもしれない。しかし、実質的には何となく不機嫌な時に視界に入ったので「環境型セクハラのよう!(あいつ何かキモくね?)」って言って、周囲が迎合してワイワイやって、分が悪いと感じたか飽きてきたから「よくなった(もういいんじゃね?)」って言ったような、そんな有様である。

擁護側もあまり過熱しない方がよい

一昔前のネット掲示板などのルールで「荒らしに構うのは荒らし」というのがあった。キズナアイ騒動などでも少し感じたが、擁護側の認識をもっとそっちに寄せた方がいいのかもしれない、と思うようになった。
もちろん、某女性弁護士やそれに連なる他罰的フェミニストインフルエンサーの発言を放置することは、主張の過激化、過激な主張の社会への浸透を招く可能性はある。一定の批判は必要だと思うものの、しかし、大方は遠巻きに「ああ、はいはい」ぐらいのリアクションをとる方が批判・擁護・被批判側、いずれにとっても健全なのではなかろうか。
ツッコミをいれるにしても、慇懃&簡潔に完封して終わり、でいい感じがする。あの界隈はいちいちツッコミたくなる言説に事欠かないが、だからこそ感情的に組み付くことで逆に存在感や影響力を高めたり、炎症反応を拡大したり、過激派や政治力のあるお仲間に論点を引っ張られるリスクを意識した方が良さそうである。

知名度が上がったから良かった、とも思えない

この騒動で作品の知名度が上がったから良かった、と擁護側が皮肉を言うむきがあるが、皮肉としてはともかく、文字通り結果オーライとはちょっと思えない。
まだ社会派的な作風なら、社会的議論になって注目されることがプラスに働き得るだろう。だが、ラブコメである。気楽に楽しむ路線の漫画に変な社会的議論がくっつくのは、中々の損失であると考えられる。
議論を通してトータルで見て株が上がったとしても、例えばお調子者系の芸人が、虐待サバイバーだったという過去をセンセーショナルに掘り起こされて、ネタが笑えなくなるような、そういうキツさがある。公演をして、客がそこそこ集まるものの、ほとんど笑いが起きず、何かと「勇気をもらえました、頑張ってください!」とか言われるようになるのは、芸人として不本意であろう。
一連の騒ぎで知って、その上で純粋に作品を楽しむ読者もいるだろうが、エンタメを求める層は普通こういう揉め事に関わりたくないと思うものである。面倒くさいイメージがついてしまうのは厄介なことで、それを避ける意味で、擁護側も環境保護的に振る舞うというか、作者の周辺はそっとしておくべきであろう。
作者の騒動やSNSの反応に対する距離感は、比較的バランスが取れているように見える。また、アニメ化も決まって、それに関してはお祝いムードである。しかし、一過性の騒ぎに翻弄された、というか現在進行系で翻弄されていることに対する精神的負担は確実にある。それが今後の創作の障害にならないことを願う。
少し前に少年ジャンプでも連載を持っていた漫画家が炎上(?)し、ツイッターを引退したが、ああいうのは結構後を引くのではないかと思ってしまう。作家を守る意味でのリスク管理は、今後出版社の重要な課題になってくるかもしれない(先日も別のクレーム問題が話題になった)。

まとめ

あのポスターを規制させることで「世の中をよくする」か。一歩立ち止まって考えれば分かる通り、総合的にしょうもない話である。繰り返しになるが、一定層の女性の感情に対する配慮を拡張すべし、という立場を支持するとしても不真面目で、ターゲッティングも展開されるマルチスタンダードも意味不明である。世の中を良くするには、明確な目標とそれを達成するには何が必要か、弊害や権利の衝突はないか、手続きは適正か、などを考える必要があるわけで……とまぁツッコミ始めるとキリがない。
そんなこんなで、某女性弁護士のあのようなツイートは、法律の専門家の発言として受け取るべきではなく、私的な愚痴であると認識するのが丁度良さげである。 そして氏を批判する上においては、むろん人格攻撃(と思われるようなこと)をするのは得策ではなく、直接の言及は極力避け、厄介な人としてスルーする風潮を広げ、発言力を減じていくのが効果的だと思われる。