教師間いじめ(暴行)事件で思ったこと

神戸で起きた教師間いじめ(暴行)事件が話題になっているが、それについて根拠のない思いつきと妄想をメモしておく。

社会性・コミュニケーション能力

「いじめ」に関し加害者の社会性を問題とするむきもあるが、これはむしろ逆であるように感じる。社会性とか社交性、コミュニケーション能力とかリーダーシップ、カリスマ。こういうものは「これからの時代に求められているもの」のような扱いを受けているが、結局は他人を感化して、もっといえば支配して動かすスキルであって、悪用されたり人を腐らせたりするリスクを内包している。「いじめ」は同質化の圧力の中でそういうものが折り重なった結果の一つではないかと感じる。
そう考えていくと、昨今の教員育成課程において見られる「社会性とか社交性、コミュニケーション能力とかリーダーシップ、カリスマ」重視の風潮は、あまりよくない気がする。というか、そういう能力が高い人間は別に重視しなくても自己主張してくるので、倫理的な信頼性に関しては別の指標を考えた方が良さそうである。
要するに、調子のいい人物を優先していると、かえって今回のようなイベントは増えるのではないかという話である。

子供第一主義

さて、加害教師らの反省文には「子どもたちが~」というような下りが散見され、うがった見方をすればエクスキューズのような形で文に組み込まれていた。それに対し「第一に謝罪すべき対象を見失っている」という批判がなされていたが、その背景には教育関係でありがちな「子供第一主義」があるように思う。
「子供様は神様」みたいなやつである。もちろん、一般に子供は保護の対象であり、フェアに見て社会的リソースを裂く優先度が高い存在であろう。だがその上で、お客様が神様ではないように子供様も神様ではない。というか子供は客ですらない。単に甘やかすなという意味ではない。甘やかす甘やかさないという判断を含め、限りなく自己犠牲の精神で接することを理想とするのは、人間関係としてアンバランスで、ストレスフルで、むしろ教育的によろしくないのでは、ということである。
といっても、多くの教師が本気で「子供様は神様」をやってるとは思っていない。そういう理想を真っ直ぐ受け取ってしまった教師は心身を病んで辞めるので、本音と建前のバランスを保てるタフな層が教育を支えている。その中でも、やはり(方向性が正しいかはともかく)教育熱心な教師がヒロイックに振る舞う方便として「子供様は神様」を言い換えた「子どもたちのため」というマジックワードは感動的に消費され、世間からの圧にも後押しされ、調子の良い感じの教師がそれを学習する。かくして品質管理が杜撰な「子どもたちのため」は、ちょっと信じられないようなハラスメント行為を行っていた加害教師たちの反省文にも反映されたわけである(と妄想した)。