表現は別にそんなに自由ではない

あいちトリエンナーレの騒動を追っていて、表現の自由について色々考えた。
その過程で確認したこと、気になったこと、思いついたことを整理し、まとめておく。

抗議や批判も表現である

脅迫は犯罪である。一方的な禁止や強制排除は表現の自由に反している行為だと言える。しかし、抗議や批判は脅迫・禁止・強制排除ではなく「表現の自由の否定」ではない。抗議や批判が表現の自由の否定になるのであれば、あらゆる表現に対し抗議も批判もできなくなる。抗議や批判と脅迫・禁止・強制排除を混同してはならない。
ところで、抗議はその性質上一箇所に集中する傾向がある。その結果、個々の抗議が正当であっても、暴力的に機能することがある。ネットの炎上でもしばしばこういうパターンが見受けられる。根本的な対策はない気がするが、意見を整えて集約する署名や投票というフォーマットを重視するようにしていくことで、多少は緩和されるのではなかろうか。

違法な表現は自由ではない

違法な表現、脅迫・名誉毀損・侮辱・著作権侵害・肖像権侵害・プライバシー侵害・秘密保持義務違反・受忍限度を超える騒音などに該当する表現は、もちろん(法的に)自由ではない。

違法でなくても事実上自由ではないことはある

政治家や公務員でなくとも不適切な発言(内規に反する表現行為等)を行うと、組織や団体の中で有形無形の処罰を受けるのはよくあることである。また、そういった処罰は(無形はどうかと思うが)一概に不当とも正当とも言い切れない。

結果論は不毛

ある表現に抗議があった時、表現を止めた or 止めなかったから、抗議者が悪い or 正しいとか、表現者(責任者)が悪い or 正しいとか、一概に言うのは不毛であろう。重要なのは結果に至るまでの議論と状況の推移の中身である。

原理主義的な表現の自由も現実的ではない

批判は甘受すると言えば、NHKがカルト集団が集団自殺するのを報道の名目で生中継するのは許容されるだろうか。
結局のところ表現の自由と言っても、大枠で大目に見るべきという啓発はともかくとして、表現の内容や媒体によって公共の福祉・公益性・社会通念・常識というお約束の概念から自由ではない。
ちなみに濫用に関しては憲法の条文内で触れられている。違法でない=濫用でないと解釈するのかは分からない。

表現内容と媒体の適切性の問題を考える

表現の自由にまつわる大体の議論は表現の自由そのものに関する議論というよりは、表現の適切性に関する議論である。歯切れが悪くなるのを恐れず、ここをしっかり議論した方がいいと思われる。

クローズド or オープン

表現媒体(場なども含むのクローズ度(オープン度)は、表現の適切性を考える上で重要な論点であろう。駅前でセックスしたら捕まるが、家でセックスしても捕まらない。ホテルでも捕まらない。
(それはそうと、わいせつ云々はみんな恥ずかしがりなのか法整備が雑な印象がある)

プライベート or パブリック

表現媒体のプライベート度(パブリック度)は、表現の適切性を考える上で重要な論点であろう。放送禁止用語連発のアングラバンドのライブであったり、ひかりの輪の講演会を公営でやるのは無理がある。

実証された実害の有無

オープンかつパブリックな媒体において、実証された実害の有無は表現の適切性を考える上で極めて重要な要素であろう。
WHOが勧告した「自殺を予防する自殺事例報道のあり方」という報道ガイドラインには実証的な裏付けがある。しかし、報道機関がこれを遵守すると表現の不自由になる。

誤りや虚偽

オープンかつパブリックな媒体において、誤りや虚偽の内容の有無は表現の適切性を考える上で極めて重要な要素であろう。
誤りや虚偽が訂正されるのもまた、表現の不自由である。

表現者の立場

政治家は政治的責任や支持率や党の内規、公務員は法律や内規(不文律もある)により、表現をかなり厳しく制限されている。大企業の重役なども事実上、色々な面で表現を制限されている。
個人的には現状、言論の範疇においても、適切性が影響力そのもの以上に属人的要素によって判断され過ぎている気がするが、しかし「こういう立場のものがこういう表現をすることは望ましくない」という論を「表現の自由」で全て切り捨てることは無理であろうし、そういう意味では表現者の立場というのは表現の適切性を考える上の論点の一つと言えるだろう。

意図

人の行為の意図は本人にしか(正気を失っていれば本人にも)分からないが、司法には故意という概念が存在している。つまり一定の証拠により、合理的に行為の意図を判断することを司法は認めている。それを認めるならば、表現行為における意図というのは、表現の適切性を考える上で考察する対象になり得るように思われる。
芸人がテレビ放送中に事故で局部を晒してしまうことと、自らすすんで局部を放送することの不適切さは、同等とは言えないであろう。

フィクション度

表現内容のフィクション度は、表現の適切性を考える上で重要な論点であろう。純粋なフィクション、半分フィクション、ノンフィクションでは適切とされる表現の範囲が異なるのは自明であろう。
特にテキストベースの純粋なフィクションは(やはりクローズ度やプライベート度は問題になるが)文字通りの表現の自由のフィールドであると思われるし、それなりにそうなっている。

まとめ

表現の自由という概念は理念として大事であるし、大枠で大目に見るという啓発も大事である。しかし、それとは別に、違法でなくとも内容や媒体の兼ね合いにおいて不適切な表現というものは存在する。 従って表現の自由を原理的に一貫することは現実的には不可能で、表現の自由を突き付け合うのも不毛である。
結局、最終的には瀬戸際で適切か不適切かということについて、上述のような論点に関してバランス良く議論していくのが大事なのではないか。と、だいたいこんな感じのところに落ち着いた。