芸術的価値を決めるのは誰か

あいちトリエンナーレの問題がまだ色々再燃し混乱が広がっているが、

この辺りの発言と、その周辺についたコメントをざっと見て、考えたことをまとめておく。

公金をめぐる政治・宗教闘争

どこもかしこも紛糾しており、不毛な議論が多くて頭が痛くなってくるのだが、あいちトリエンナーレの問題は、表現の自由どうこうというより、公金の使途を巡るある種の政治・宗教闘争であるように感じる。その上で、これは「政府が芸術の価値を決めた」のではなく「津田氏が芸術の価値を決めた」というところからのスタートである。「ネットでの情報共有に造形が深く、芸術家の側面を持つ津田氏が決めたのだから、広く市民・県民・国民が十分な利益を得られるはずなので、公金を投入する価値がある」からのスタートである。しかし、

津田氏に芸術の知識や素養があるか

個人的にはなさそうに思える。いや、あるかどうかは分からないが、よく分からない賞を取っていたくらいで、真面目にずっと芸術に関わってきたキャリアはないようである。東氏とかあっち系の有識者的なコネを通して「ネットで有名人ぽい」「早稲田大学でメディア的な何かを教えてる」「それらしいこと言ってる」「新しい分野横断風なことしたい」的なノリで行政が接点を持ってしまった印象を受ける。

芸術の知識や素養がある他の専門家ならいいのか

相対的にはマシそうであるが、昨今のアートそのもののあり方を考えると、根本的な問題は残る。今回の問題を通して「○○もアート」という形でのアートの相対化が多く見られた。確かに現代アートという枠組みでみれば、およそ全てのものはアートである。古典絵画から路上のゲロまでアートといえばアートである。「飽食と貧困、現代のアルコール文化の表出である吐瀉物のあり方から社会を問う」みたいなことを言えば「路上のゲロ展」もできそうなのがアートである。しかし、公金での展示を行うとなった際に、古典絵画と路上のゲロの芸術的価値を平等に測れる専門家は多分いない。つまりアートを「何でもアート」的枠組みで捉える限り、日本画の重鎮だろうが一般人だろうか本質的に大差がない。

エリート主導か大衆人気か

「アートは民主主義でない」「ナチは大衆受けを狙った」とか、やたらと大衆批判的なコメントを見かけたが、じゃあ公共アートの選定はエリートによる主導であるべきだということだろうか。メディア・アクティビスト兼アーティストである津田大先生のポリティカル・アートの世界こそ至高ということだろうか。それなら単なる大衆人気の方が大分マシそうである。とはいえ、大衆人気におもねるだけでいいかというとそれも違う、というのが常識的な芸術観であろう。この芸術観は、アートの専門家が人気では測れない芸術的価値を測る努力を真面目にしている、と大衆が信じているから成立している。今回の件でアート関係者が雑に大衆批判の流れに乗ってしまうと、むしろ大衆のアート離れが加速しそうである。

究極の解決方法

さて、アートの芸術的価値を決められるのは果たして誰なのであろうか。アートの専門家に委ねるのは、前述の通りエリート主義。大衆に委ねるのはナチスポピュリズム・商業主義とか言われる。ただし、何でもアート。みんなアーティスト。これらを踏まえて、公共的なアートが自由で公平かつ開かれているためにはどうすればいいのか。
その答えはもちろん無作為抽出である。日本画から前衛彫刻、便所の落書き、路上のゲロまで持ち寄って、ランダムに選べばいいのである。それ以上に公平で開かれた選定基準があるだろうか。いやない。
――ということになってしまうので、大体にしてあんまり何でもアートとか言わないほうがいいのでは、と個人的に思った。