論理と戦略、マーケティング的ディストピア

色々と社会、政治的な論争を見ていて漠然と考えたことをメモしておく。

論理

論理(合理性といってもいい)は物事を考える上で最も基本的かつ、重要な要素である。何をするにしても論理が無いことには話にならない。十分な正しい前提と論理があれば、多くの議論はそもそも生じない。

戦略

論理は重要だが、当然のことながら人は論理に従うわけではない。論理に反発し非論理的になることも多い。論理を人に伝える際には、戦略が必要である。
まず話者の属性というものがある。大抵の場合、美形vsブサイクであれば、同じ主張をするにしても美形の方が有利であろう。もちろん、容姿差別などについて論じる場合は、美形の方が不利であろう。
言い方も重要である。現代において多くの政治家がそうであるように、大抵の場合、丁寧な言葉を使う方が有利である。その上で、分かりやすさ、権威的な語彙、冷静さ、熱さ、例示、レトリックなどの要素をどう盛り込んでいくか、論敵やギャラリーに応じてそこを調節していく技術を、政治的手腕というのだろう。
アイデンティティポリティクスが花盛りの昨今においては(できれば上品に)被害者ポジションを取るというのは、極めて重要な戦略であろう。論理を重視する立場であっても、この点はしっかり意識して議論に臨むべきであろう。

マーケティングディストピア

上で述べた戦略とは結局、マーケティングのようなものである。それが局所的に効率的な振る舞いであったとしても、マーケティング的手法をフルに活用し続けると、やがて「社会がマーケティングを利用する」ではなく、「ソビエトロシアではマーケティングが社会を利用する!」ってなことになるような気がしなくもない。これがマーケティングディストピアである。
まあ大げさで途方もない話だが、論理を伝える上でも戦略は大事だと思う一方、戦略的な振る舞いが持つ倫理的な危うさにも、何となく思い至ってしまうのである。